東京・調布市

京王線・布田駅北口 徒歩0分



調布市・布田のあたり

 「調布」の起こり
 桓武天皇の延暦18年(799年)に、木綿(もめん)の実がはじめて中国から渡ってきましたが誰も布にする方法を知りません。
 その頃、多磨川のそばに、菅原家の親類で、このあたりではよく名を知られた広福長者(こうふくちょうじゃ)という人がいました。
 その人が布多天神社に七日間おこもりをしてお祈りをしたところ、不思議に神様のおつげがあり、布の作り方がわかりました。
 早速その通りににすると布ができました。それを多磨川にさらし、きれいに整えて天皇さまに差上げました。(これが我が国はじめての木綿といわれています)。
 天皇様は大そうお喜びになり、その布を「調布」と名づけられました。それからこの辺りを武州調布の里というようになりました。

 「調布」の由来
 万葉集に「多摩川にさらすたづくりさらさらに 何ぞこの児のここだかなしき」とあるように、多摩川に近いこの地域では、古代にその土地の生産物を納める税(調=「みつき」ともいう)として、布を晒して朝廷に納めたと考えられ、これが調布の名の由来とされています。

 「布田」の由来
 和名鈔(わみょうしょう・平安時代に成立した分類体百科事典)に新田「爾布多(にふだ)」とあったのを、のちに爾を略して布多と書き、さらに「多」を「田」に改めました(新編武蔵風土記稿)が、「府田」「捕陀」と書かれたこともあります。室町時代に、深大寺の住僧、長弁によって書かれた「私案抄」の中には、「布田郷(ふだのごう)」として出てきます。

 「国領」の由来
 古代から中世にかけての国衙領(こくがりょう・律令制下の諸国の政庁)がこの地にあったことに由来するとされたり、周辺にトビタ給、アゲ給、給田(きゅうでん・世田谷区内)という地名が残っていることから、これらは中世の給分(鎌倉幕府や荘園領主が御家人や荘官に給与した土地、米、銭などをいう。)と関係のある地名とする説があります。また地元ではコクリュウとよぶ場合もあります。

調布市郷土博物館発行「調布の伝説」より


   
布田駅の今年の桜  布田駅の去年の桜  徒歩2分の常性寺




 布田五宿
 江戸時代、甲州街道は日本橋を出発点に内藤新宿から長野県の上諏訪宿までの45宿(場)があった。
 当時、国領、下布田、上布田、下石原、上石原の各宿を合わせて布田五宿と呼ばれていた。一つ前の宿場は上高井戸宿、次は府中宿である。
 各宿場には、旅行者の宿泊施設と人や物資を輸送するための人足や馬を配した問屋場(といやば)と呼ばれる施設が置かれていた。当時の物資輸送は、依頼を受けた荷物を今の宅急便のように直接目的地まで運ぶのではなく、宿場ごとにそこの人馬に積み替えて中継していく方法がとられていた。この輸送方法は「宿継ぎ(しゅくつぎ)」と呼ばれていた。5街道のうち、特に甲州街道は規模の小さい宿が多いため近隣の宿がグループ化され、「45宿」は結果的に「32継ぎ」になって運営されていた。日本橋からの距離からして宿泊客が限られるなどの理由で、宿場が生み出す利益より人足や馬の調達の方に経費がかゝったのがこの様な「変則宿継ぎ」の生まれた遠因と考えられている。布田五宿はひと月を6日毎に交代する当番制で、両隣の高井戸宿や府中宿へ宿継ぎ業務を行っていた。
 布田五宿には宿泊施設が合わせて9件あったが、どの施設にも参勤交代時に使う本陣や脇本陣はなかった。45宿のうち本陣・脇本陣のない宿は他には駒橋宿(山梨県)だけで、このことからも布田五宿の特異性がうかがわれる。
 (参考資料:調布市郷土博物館発行
  解説シート「甲州街道と布田五宿」)


 千年のふじ
 平安京が誕生して千二百余年になる。
 千年といえば国領神社には調布八景のひとつ「千年乃藤」という古木がある。近隣の人なら誰でも一度や二度は見たことがあるだろう。毎年5月には棚いっぱいに見事な花を咲かせるが訪れる人はそれほど多くない。
 ふじはマメ科のつる植物で年輪というものがない。樹齢は推定で千年ともいわれているがそれ以上なのかも知れない。この木が武蔵野の一角に小さな芽を出した頃、みやこでは紫式部や清小納言が活躍していたのだろうか。
 宮司さんによれば、この藤は大きな欅(けやき)にからまって生きてきたが、ある年の落雷でこの木が枯れて現在の鉄棚になったそうである。古木なので一年中休手入れは欠かせない。相当量の蜜も獲れるらしい。品種は野田藤。すぐ横に歩道橋があり、上から見ることのできる藤は全国でも珍しいそうだ。
 ふじ(不二、無事)の実の入ったお守りも珍しい。涼しい境内で見事な古木を眺めながら平安の昔を偲んでみてはどうだろう。 参考資料:七中広報誌「大地」より
    (国領神社 布田駅北徒歩3分)


 野川・四季折々の変化
 野川は全長約二十キロメートル、国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷で多摩川に合流している。
 武蔵野段丘の南の縁(通称ハケ)に位置しているが、大むかし多摩川がここを流れていたことはあまり知られていない。当時多摩川は武蔵野段丘を削りながらその堆積物で次第に河原を広げていった。その後流路を河原の南端、府中辺りに変えて流れるようになった。一方、旧川筋にはハケからの湧き水が変わることなく流れ込み野川として現在に残る結果となった。
 流域には縄文時代の遺跡も多く古代武蔵野へのロマンをかきたててくれる。
 二十年前はかなり汚れがひどかったが、多くの人々の努力で今日見られるような清流になり、深みには鯉やふなが泳ぎ、かわせみや鷺(さぎ)などの水鳥もかえってきた。
 遊歩道や憩いの水辺、ほたる村などもでき四季折々の変化を楽しみながら、散歩、ジョギングをする人たちや歓声をあげる子どもたちを多くみかける。
 調布あたりは両岸に桜並木が続き満開の頃はまるで絵のような美しさだ。  参考資料:七中広報誌「大地」より
    (野川 布田駅北徒歩15分)


調布の地名


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